私の馬仲間達はよく知っているが、私は基本的には牝馬は好きではない。ロジカルな理由がある訳ではないが、何か合わないのだ。そんな私が、引取先の無かった元競走馬のサラブレッドのマヤという牝馬を引き取ることにして、紆余曲折ありながらもポロ馬に成長させた。今回は、そんなマヤのポロ馬への成長奮闘記についてシェアしたい。
マヤを引き取るまでの経緯
昨年の2022-23のポロシーズン中、ハイデラバードから数名ポロ選手が私の所属するポロクラブに来ていた。マヤはその約30頭の内の1頭。2018年産まれ (5歳) の元競走馬のサラブレッドの牝馬。私のコーチの古くからの友人であるアマチュアのポロ選手が、このハイデラバード出身のポロ選手のためにマヤのトレーニングをしており、そのままこのコーチの友人がマヤを引き取ることになり、マヤが私の厩舎に来た。記憶は曖昧だが、2022年12月頃の話。マヤが来た当初はまだ競馬上がりのOTTB (Off the Track Thoroughbred) で、コーチの友人がポロ馬になるためのトレーニングを行っていた。
そして2ヶ月程度過ぎた後、そのコーチの友人がいきなり消えてしまった。全くの音信不通。結果的には、半年以上経って、いろいろ家庭の複雑な事情等がありうつ病になっていたことが分かったが、マヤが私の厩舎に取り残されることになった。コーチは引き続きマヤのトレーニングをしていたが、165cm程度あるマヤはポロ馬としては大きい。そのため、販売先を探したいということで、私の乗馬仲間に声をかけてくれないかと頼まれた。幾つか当たったが、マヤはさく癖もあり、当時のコンディションも良くなかったため、なかなか販売先が見つからなかった。この写真が、当時のマヤ (写真左) ↓ 栄養失調のように腰が沈んでお腹が出ている。割り箸のようで強く触ったらガラスのように壊れてしまうような雰囲気だった。
なかなか販売先が見つからないマヤ。既に2023年3月で、もうシーズンの終わりが見えている頃だった。オフシーズンになると収入がゼロになるプロ選手であるコーチ。オフシーズンに突入する前にどうにかしたいという焦りが見えた。
こんな状態の馬をほっておける訳がない私。引取先がなかったら、最終的には私が面倒を見るつもりでいたものの、何となく私の第六感が、マヤが私の厩舎に来てこうやって行き先がないのは何か理由があるのではと感じるようにもなっていた。動物保護をする上での私のポリシーは、『誰も要らない行き先のない一番最後の子を引き取る』ということ。こうやって私の厩舎やファームにいる犬たちは私の元に来ている。
そこで、コーチにお願いしてマヤに乗らせてもらった。実は、私はマヤに一度も乗ったことも触れたこともなかったのだ。小さな練習グラウンドでボールを打つ練習をした。乗った瞬間、『何て馬なの!』と感動した。むしろ、まだ5歳で伸びしろがあるマヤを、なぜコーチが売りたがったのか理解できなかった。そして乗り終わった後、コーチに『私が面倒見るから文句なしね!』と言った。でも、コーチはどこか反対で『美奈の馬として置いておくのはいいけど、売れる時が来たら売った方がいいからね』と言われた。でも晴れて、2023年3月15日、マヤはそのまま私の厩舎に残れることになった。
理想と現実
沢山の人に声をかけても引き取り先の無かったマヤ。私は、絶対見返してやる!と心の中で誓っていたものの、現実はそんなに甘くは無かった。マヤを引き取ってからすぐオフシーズンに突入して、グルガオンは48度の猛暑の日々。夏が特に苦手でコンディションが悪かったマヤは、エサを残したりぐったりすることも多く、何度か点滴をした。もしかしたらマヤを亡くしてしまうかもしれないと心臓が張り裂けそうになることもあった。
そして2023年7月、シーズンに向けたトレーニングを開始。この記事に書いているが、プロ選手であるコーチはシーズンが始まったらジャイプールに行ってしまうことが分かっていたため、今季はコーチに頼らず、自馬は自分でトレーニングすることに決めた。
7月は基本的には軽速歩運動だけで、まずは筋力を戻すことに注力するため気づかなかったが、8月に入って駆け足運動を始めた際、バッキングされるはブレーキは効かないわ、全く左手前での駆け足が出ないわで、気分が地に落とされた。そして8月半ばになりグラウンドがオープン。ミスばっかりで全くボールが打てなかった。コーチが言っていた通り、やはり私にはマヤは背が高すぎるのかと思った。そんな状態でチャッカー練習がスタート。勿論上手く行くわけがない。首を横に何度も振って反抗される。チャッカー練習でボールを奪い合う時にも、後退して反抗されるようになった。もう無理かもしれないと思った。
そんな弱音はコーチには吐いていないが、9月にジャイプールに去る前、コーチが今シーズンで初めてマヤに乗ってくれた。これで改善されるかもしれないと期待したが、暫くした後、『マヤを売った方がいい』と電話がかかってきた。コーチ自身がトレーニングして改善が見られない場合には、今後ポロ馬になれる期待が薄いのと、お互いが一緒に共有できない馬が厩舎にいることは無駄だと。いいReplacementの馬を探すから考えて欲しいと言われた。
コーチとコンビを組んでもう3年になる。プロであることの厳しさも良く分かっている。私自身もアマチュア選手であるが、ポロで使えない若い馬をこの先何十年もこの厩舎には置いておけないことは分かっていた。コーチが言っていることは納得できるため、自分との葛藤も含めてめちゃくちゃ泣いた。でも、そんな風に言われて簡単に引き下がれる訳がない。私の一番の愛馬、タイソンもマヤの事が大好きだった。毎日マヤとくっつきたくてしょうがない。そんなタイソンのためにもマヤと離れ離れにする訳には行かなかった。そして、私が引き取ると決めたということは、一生面倒を見ると決めたということ。
スラムダンクの安西先生の言葉、『諦めたらそこで試合終了』。諦めるにはまだ早い。厩舎にいるBest Playing Pony達に性格等がマヤは似ていた。馬の群れのヒエラルキーの中で一番上に来る馬がトップレベルのポロで活躍するのではないかという私の勝手な統計学がある。従い、コーチには諦めたくないからもう少し待って欲しいと言った。仮にマヤがポロ馬としてのポテンシャルがない場合には、友人の乗馬クラブか動物保護施設 (これも毎月の預託料が要る) に預託する、でも、いずれにせよ『マヤは絶対に売らない』と言って電話を切った。
でもそれからも、なかなか上手くマヤをハンドリング出来ていない私を見て、ポロ仲間からも、この牝馬は美奈には大きすぎるんじゃない?と言われたり、兄の乗馬クラブで子供達用のポロ馬を探しているから、マヤがポロに向いてないからトライさせてくれないか?と声がかかったりもした。
最高のポロ馬への転身
9月半ば以降、だんだん涼しくなってきて、マヤの動きが凄く良くなった。身体も背中に肉が付いて明らかに体型が変わった。勿論、スナッフルだと止められないことも多く、左手前は硬い。アリーナでの騎乗は相変わらず地獄にいるような感覚になることもあったが、フィールドでは凄く楽だった。私のBest Playing Ponyであるタイソンよりもボールのミート率がいい。練習試合ではなぜかマヤで沢山ゴールも決められるようになった。
そして10月中旬。コーチがジャイプールのシーズンを終えてグルガオンに帰ってきた。何度か練習試合含めて乗ってもらった。『エゴ』が強いマヤ。今でも簡単な馬では全くないが、乗る度に改善を感じるようになった。そしてコーチからも、『最近マヤの動きいいね』と言われるようなり、最終的には『俺もマヤでプレイできる』と言われるようになった。コーチがプレイできるということは、お互いに馬をシェアできるということ。もう、マヤを遠くに預けないといけないかもしれないという懸念が無くなった。
最後に…
何がマヤを変えたのかは今でも分からない。でも、まずは割り箸のようなガリガリのマヤに食べて強くなってもらうことにフォーカスした。嫌がることは無理強いしない。マヤが得意なことをどんどんやった。でも、コーチにも乗ってもらって悪いクセは矯正してもらった。ライドオフでバーッンとぶつかると怒って気分を害するマヤ。でも一緒に並行して走るだけだと頑張ってくれる。マヤにはマヤのための乗り方がある。そこを理解して日々乗った。もしかしたら、私の一番の愛馬であるタイソンが、マヤに私達を信頼していいことを教えてくれたのかもしれない。
マヤを引き取ることに決めてから本当に苦労した。プレッシャーだった。でも、そんな私の気持ちにマヤが応えてくれた気がする。私自身にとっても、難しい馬に乗ることは自分の成長にも繋がる。そして、マヤに乗っている時は全く疲れない。試合最後の4チャッカー目は一番疲れている。そんな時に疲れない馬に乗れることは試合結果にも左右する。私の中で、マヤは4チャッカー目に戦える馬になってくれた。まだ5歳のマヤ。今後の成長が楽しみでもある。が、やはり牝馬。触ろうとすると威嚇してきて全く可愛くない笑。
最後まで読んで頂き有難うございました🙏
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